またツインフレ—ムの道を歩む方々の役に立ち、みなさんが奥の深い真実の「愛」の世界に入っていけるよう、私たち自身の実体験、経験、足跡、光の時期、闇の時期などの話も、わかりやすく書かせていただきました。
私は再結合の直後から絶えずメモを取り、起きた出来事の意味をちゃんと理解しようと心がけてきました。それは先に道をしっかり歩んでいれば、ほかの人を導けるようになると考えたからです。
山のガイドさんに例えてみましょう。山登りのグル—プに付き添うガイドさんは、自分が案内する山をガイドするグル—プとはじめて訪れるわけではありません。ガイドさんはその山道をすでに歩いたことがあり、道のことがよくわかっていないといけません。また、気持ちのよい場所や危険なポイントについても知っておかなければなりません。ガイドさんが他人を道案内できるのは、予めそこを通ったことがあり、意識的に道のことを覚えたからこそなのです。
さて、私たちは自分たちに実際に起きていることを客観的に観察し、分析し、理解することができるような俯瞰的な位置に意識的に自分たちを置き、ツインフレ—ム関係のポジティブな面もネガティブな面も広く体験することが大事だと考えました。
ツインフレ—ムの仕組み、引き金となる出来事、さまざまなステップ、困難なこと、誤解しがちなことなどについて理解し、認識したうえで、理屈ではなく経験を伝えられるようにすることが重要だと考えたのです。
この本を書くため、5年のあいだ、私たちはこうした取り組みを続けてきました。
この本がまだ「目覚めて」らっしゃらないツインフレ—ムの方々の心にどうか響きますように。
この本がご自分のツインフレ—ムとの再結合前の準備としてぜひ役立ちますように。
この本が再結合のあとにツインフレ—ムが体験するピュ—ル・プロセスに立ち向かう勇気を与えられますように。
この本によって、より多くの人々がより「高次元の愛」に触れられますように。
ワ—クショップとサポ—ト
この本はまず「ツインフレ—ム・プロセス」によって一体どこにたどりつけるのかを説明し、そのなかでも特に「ピュ—ル・プロセス」と呼ばれるプロセスで起きることをお伝えし、これをひとりで乗り切るための助けとなることを目標としています。
しかしそれだけでなく、多くの読者のみなさんにとって自分のツインフレ—ムとの出会いの準備として役立つ招待状となることも目指しています。また、ある方にとってはツインフレ—ムとの関係で出会う困難を明らかにするものとなることでしょう。そして、ある方にとっては自身の闇のゾ—ンや思い込みに気づくきっかけとなるかもしれません。
先ほど書いたとおり、私はスピリチュアルガイドからこの本の執筆を勧められたのですが、そのとき、目覚めを体験し、旅立つ決心をしたツインフレ—ムの方々へのサポ—トを私が行うようになるとも告げられました。
私たちは最初の数年間、大変濃密な共同生活を送りましたが、それはこの生活が将来人々をサポ—トするにあたっての準備期間として役立つと考えたためです。
実際にこうしたツインフレ—ム・プロセスで培った経験をもとにして、サポ—トを希望される方の前進のためのワ—クショップやツ—ルを開発することができました。
この本の情報
この本のことに話を戻しますと、本書は三種類の情報源をベ—スに書かせていただきました。
まず第一の情報源はツインフレ—ムの関係を経験した私とルドヴィックの実体験です。私たちは数年前からさまざまなステップを通過してきました。これは「再結合」、「サインと現象」、そしてのちほど詳しく説明する「ピュ—ル・プロセス」(私が名づけました)というツインフレ—ム特有のプロセスなどです。
私たち自身の経験は、当然個人的なものであり、私たちカップルの状況に固有なものです。そのため、ほかの人やほかのカップルが仮に同じ現象やステップを経験したとしても、私たちと同じような感じ方をするとは限りません。再び山のガイドさんにたとえると、同じ道を歩いたとしても人によって体験する内容は異なることでしょう。また、見えるものだって違うかも知れません。ですからこの本を書くにあたっては、自分たちの経験だけに頼らないよう心がけました。
第二の情報源はほかのツインフレ—ムカップルの方々の体験談やメッセ—ジ、そしてその方たちとのやりとりのなかで得た情報です。私のブログには数年前から世界各地に暮らすツインフレ—ムカップルの体験談が寄せられています。ブログを通じて知り合ったなかで希望する方にはツインフレ—ムとの再結合につながるエネルギ—ワ—クやトレ—ニングなどのお手伝いをさせていただいています。
こうして多くのフィ—ドバックや体験談が集まりました。多くの情報を分析することで私自身がカップルとして行っていたワ—クの内容を補完し、一層充実させることができました。
そして最後の第三の情報源は私のスピリチュアルガイドです(私はスピリチュアル的な感受性が強く、幼少のころからずっとこうした世界と比較的頻繁にコミュニケ—ションをとってきました)。スピリチュアルガイドである「光の存在」からはたくさんの情報や教えを受け取りました。光の存在はツインフレ—ム、愛、また広い意味での「大いなる生命」、また私たちが体験することになるプロセスに関する基本的な知識を授けてくれ、その解説もしてくれました。
またツインフレ—ムとは何か、ツインフレ—ムとの出会いの体験がどのようなものか、そしてそれがどういう意味を持つのかといったことも深く理解させてくれていました。ただし、私の言うことが「絶対的な真実」だと言い切るつもりはありません。正直なところ、私は人間の意識や頭脳はツインフレ—ムや命に関する秘密をすべて理解するには程遠いと考えています。
ただ、私が垣間見て、気づいたところでは、現在私たちがツインフレ—ムのみなさんと一緒に体験していることは、単にカップルや恋愛という範疇をはるかに超えた、とてつもなく巨大なプロセスのなかのひとつのステップにすぎないと確信しています。
なお、この先について知るのは、より多くの人々が自分のツインフレ—ムと再結合し、「新次元の愛」を体験したあとのお話になります。物ごとには順番があってステップを飛ばすことができないからです。とはいってもその最初のステップでさえ、すでに多くの意志や勇気、熱意が求められます。この最初のステップをより多くの人が乗り越えるお手伝いをさせていただけるのであれば大変嬉しく思います。
ちなみに、みなさんがこの本でお読みになることは、私たちの母国フランスをはじめとする、世界のインタ—ネットの情報をもとにしたものではないことをお伝えしておきます。私が使っている用語の多くは私をサポ—トしてくれているスピリチュアルガイドと私のあいだで使っているものです。ですから、ほかで使われている用語とは比較しないでください。固有の用語につきましては本のなかでその都度詳細に説明させていただきます。
新次元の愛
「愛」とはなんでしょうか?
「愛」は私たちの心のまん中で大きな場所を占める、人生の大いなる神秘です。愛は複雑であり、時代や文化によってはなはだしく異なるからこそ、人の心を捉え、人に疑問を投げかけます。
愛は人生、人間関係、そして人々の関心の中心に居座っています。
愛はあらゆる形をとり、さまざまな方法で存在します。さて、ここでは愛に関する今ある定義を見直すのではなく、愛に関するさまざまな研究や仮説について分析を行っていこうと思います。
愛の探求の旅の途中で「宇宙」が私に教えてくれたことをみなさんにご紹介させていただこうと思います。
ただし、私の言うことが「絶対的な真実」だ、私は何もかも知っているなどと言うつもりはありません。
私は存在の本質を研究中のひとりの女性にすぎません。自分の旅の道すがら、自分のツインフレ—ムと一緒にみつけたことをただみなさんと共有したいだけなのです。
» 「愛」のふたつの側面
1) 私たちの「愛」の捉え方
愛とは何かを考えるにあたって、まず選別を行い、基本的な情報を共有しておきましょう。愛についての考え方や愛に求めるものは人によって異なるため、この点を押さえておくことは重要です。
さて、ここで少しエクササイズ(練習)をしてみましょう。
次のような質問をご自分に投げかけてみてください。
● 私にとって愛とはなんだろう?
● 私が個人的に愛を定義するとしたら?
● 自分に対する愛、他人に対する愛、カップルとしての愛を私はどのように捉えているだろう?
● 私は愛を具体的にどのように認識しているだろう?
● たとえば私にとってカップルにおける愛をあらわす行為とはなんだろう?
● どうすれば私は相手から「愛されている」と感じるのだろうか?
● どうされたら私は相手から「愛されていない」と感じるのだろうか?
このエクササイズを行うことによって、あなたは自分自身についてよりよく知り、あなたにとっての愛がどのようなものかがわかるようになります。質問はもっと掘り下げることもできますが、このへんにしておきましょう。
同じ質問をほかの人にしてみてください。すると、人によってまったく違った答えが返ってくることがわかるでしょう。これはごく当たり前のことです。私たちの愛に対する考え方、愛との接し方は千差万別なのですから。
ただ、カップルのあいだで愛に対する考え方や愛に求めるものが違っているとやはり落ち着きません。
人間の愛に対する考え方にはさまざまな種類のフィルタ—がかかっていて、いろんな条件や制限が付けられています。
ひとりひとりが時代、社会、教育、文化、宗教、集団的意識などによって異なる、それぞれの愛の見方をしています。
また、宗教、過去の経験、恐怖、無意識・意識的に設けられている制限、コンプレックス、トラウマ、願望、欲望などによっても見方は大きく左右されます。
広い意味での愛という言葉に対して私たちはみんな違った考え方をしていて、愛が果たす役割も人それぞれです。
愛について考えるとき、私たちはまるで内側にも外側にもフィルタ—がついた眼鏡をかけているようです。制限がついていて、ひとりひとり見える景色が違います。
私たちが見ていること、私たちが信じていることは必ずしも本当のことだとは限りません。
このように人間にとっての「愛の見方」には制限がついていたり、変形させられていたり、あるいは歪められている恐れがあります。ところがその一方で「本来の愛」というものが厳として存在します。これはピュアな状態の霊的本質としての愛です。
2) 「本来の愛」
人間としての私たちの捉え方では、愛は小さくなるように制限が設けられ、変形され、歪められた状態で感知されています。しかし、実際には愛は大きなものであるということを認識しておくことが重要です。実際の愛は私たちが人間の頭や意識で想像したり、信じていたり、考えているよりもはるかに巨大なものです。
実は私たちはみんな自分のやり方で、自分の意志によって、この「ピュアな状態の愛」につながることができます。ピュアな状態の愛、それはあらゆる形態の生命、あらゆる創造物のみなもとです。この愛はあまねく存在です。愛は至るところあり、ありとあらゆるもののなかに存在しています。愛は無限であり、愛には限界がありません。私のスピリチュアルガイドはこれを「絶対的な愛の根源」と呼んでいます。
この絶対的な愛の根源とつながっていることを思い出したとき、私の人生は大きく変わりました。
そのとき、私は幼少期に(きっとほかの多くの幼い子供も同じでしょう)この絶対的な愛の根源と自然につながることができていたことを思い出しました。
また、私は12才ごろに事故にあって死の淵を訪れたことがあったのですが、そのときにもやはりこの絶対的な愛とのつながりを感じていました。それは深い愛の波動に包み込まれ、愛され、しっかり支えられている感覚でした。このときに経験したこと、感じたこと、それはとても言葉では表現しつくせません。この体験は私の記憶に深く刻み込まれたまま今も残っています。そのとき、絶対的な愛が本当に存在すること、そしてこの愛に触れることができることを知りました。そして、それは私の確信となりました。
» 愛を求める競争
愛は私たちみんなに関係するものです。
私たちの行動を少し観察してみると、人生が「愛を求める競争」のようにみえることがあります。競争はしばしば無意識のうちに行われます。
つまり、私たちは誰もが愛を必要としていて、生涯愛を追い続けているのです。魂の観点では、愛を必要としたり、求める行為は必ずしも正しいことではありませんが、人間の観点では仕方ないでしょう。生きるために愛は不可欠なのですから。食物や水が体の栄養として生きていくのに欠かせないように、愛は私たちの人間としての魂の栄養となります。
私たちは心の必要性を満たすために愛を追い求めてしまうのです。
» 「空っぽの愛」と「満ちた愛」
「ツインフレ—ム」という本題に入る前に「空っぽの愛」と「満ちた愛」という考え方、そしてその仕組みについてよく理解しておきましょう。
ここでお話しする「空っぽの愛」と「満ちた愛」という考え方は人が自分自身に、あるいは他の人々に愛をもたらすときの心の動きを理解するのに重要な鍵となります。
誰かを愛するとき、その人と一緒にいると満足だ、一緒にいると落ち着くなどと言います。
さて、「一緒にいると満足」とは何を意味するのでしょうか。それはその相手が自分の必要とするものをもたらしてくれ、そのことによって自分が満たされるということを意味します。
「絶対」とまでは言いませんが、私たちはしばしば意識的に、あるいは無意識的に自分に欠けているもの、心地よさを感じるもの、必要なものを他人のなかに探しています。
これは私たちのなかに空っぽな場所があって、そこを埋めてくれるものを持っている人を探している状態です。
わかりやすくするため、ひとつ例を挙げましょう。ここにあるひとりの女性がいました。彼女は自分が愛されている、大切にされていると感じる必要がありました。そこで自分に関心を寄せ、こまめに世話をしてくれる男性を探していました。そこにひとりの男性があらわれます。彼は彼で女性の役に立っていると感じる必要がありました。それは自分が誰かにとって大事な存在となっているとの実感が欲しいからでした。さて、この女性とこの男性が出会い、カップルとして暮らすことになりました。
男性はこまめに女性の世話をし、そのことで自分が女性にとって役に立っている、自分は誰かの大事な存在であると感じる必要が満たされました。また同時に、この行動のおかげで女性も男性から愛される必要、大切にされる願望が満たされました。
お互いが心の平和を感じ、愛しあい、一緒にいて幸せになれたのだから、何も言うことがないじゃないかと思われるかもしれません。
確かに自分のなかに空っぽの場所があっても、それをほかの人が埋めてくれているあいだは物ごとがまるく収まっているかのように思えます。ところがもしこの空っぽの場所がこの男性ではなく、別の方法でも埋められるとしたらどうなるでしょうか。男性は自分が役に立っていないと感じ、ふたりの関係のバランスは崩れてしまいます。
私はこうしたバランスを「危ういバランス」と呼んでいます。つまり、このバランスは適切ではないのです。実際は不安定なのにもかかわらず、一所懸命誤魔化し続けているに過ぎないのです。こうした関係は何かがあればすぐバラバラになり、すべて崩れてしまいます。
ここで説明したケ—スを私は「空っぽの愛」と呼んでいます。この愛はひとりひとりの空っぽの場所を他人が満たすことで成りたっています。
こうした「空っぽの愛」にはありのままでいる自由がありません。バランスが危うく、自分の権限を他人に渡すことによって成りたっているからです。